紫光会活動日記

立教大学体育会剣道部紫光会活動日誌

寄せ書き67年後の帰還

8月13日(金)日経新聞に出征した立教大生の日章旗、米から母校への記事が載せられましたが立大剣道部の名が手懸かりに。

記事抜粋
今年5月、立教大学文学部西原教授が受け取ったメールは米ウィスコン州に住むスティーブン・カーと言う米国聖公会の牧師からでした。
メールによるとカー牧師の隣に住む信者のツビッキーさんという男性が昨年85歳で癌で亡くなられた。
彼は18歳の頃、太平洋戦争に従軍していた経験を持ち戦闘で日本軍と相対した後、斃れた日本兵のポケットから、1枚の旗が出ているのを見つけた。彼はこの旗を米国に持ち帰り・終生大切に保管していたという。
ツビッキィーさんは他界する1年ほど前からカー牧師に「旗に何が記されているのか知りたい」と言い、その調査を引き受けた牧師は翻訳してもらい旗の中に同じキリスト教聖公会立教大学の学生で姓は渡邊氏であることが判明した。
カー牧師は病床のツビッキィーさんに旗を手にした経緯を知りたいと求めたが、終戦以来決して語ろうとしなかった「あの日の出来事」を打ち明け始めた。
語り終えた後、「この旗には名前が書かれているのか?」と牧師に尋ね、「その兵士の名前は分かった」と伝えると牧師を見上げて暫くの間沈黙していたという。その数日後彼はこの世を去った。
遺族から旗を受け取った牧師はインターネットで旗に記されていた立大剣道部と立教大学の名前を頼りに検索しキリスト教学科の西原教授にメールし「ワタナベの家族が生きているなら返したい。もしいなければ母校に返還したい」とつづられていた。
大学のその後の調査で渡邊氏は昭和18年学徒出陣し、その後20年4月にフィリピン・セブ等で戦死したことが分かった。

記事の補足
大学総長より神橋先生を通じて5月末に紫光会事務局にメールの内容と旗の写真が事務局に送られてきました。
旗の中に立大剣道部 小林義司と言う名が記載されておりこれが手がかりに、他に山岳部などの記載があって立教関係者であることが有力で剣道部のOB会にも調査を依頼されてきました。
戦前の資料など調べ、渡邊太平という人は剣道部員では無いことが分かりましたが旗に寄せ書きのある小林義司氏は間違いなく剣道部員で同期の18年入学の現在名誉会長の雨宮先輩の同期であることが判明しました。

6月始めに地福会長と筆者で甲府の雨宮先輩をお訪ねした折、牧師からの手紙を読み上げて旗の写真をお見せしたところ、声を詰まらせながら当時の事をお話し下さいました。
戦時中、学内では軍事教練が盛んな折り立教大学は敵国教育の大学として差別や偏見を多く受け、入隊後も厳しい境遇を余儀なくされた人も大勢いたこと。
昭和18年の学徒出陣に参加した当時の剣道部の状況や3年上級の8名の部員の内4名が戦死するほど悲惨な状況だった事等。
そして旗の写真をお見せすると大きな字で中川一郎と言う名前が当時の英語の教授でその他の名前は家族とそのクラスメートの名前であることが判明しました。
小林義司氏は10年ほど前にお亡くなりになったとのこと。
もし生きておられれば渡邊氏を含め当時の様子をお聞きできたと思います。

雨宮先輩からのお話を含めて神橋先生を通じて大学側に報告しました。
その後、大学独自の調査でたまたま職員の知り合いから偶然遺族の状況が分かってきました。
遺族の姉の娘さんさんが判明し、母は生前、愛する弟からの戦地からの手紙や写真、招集のため提出できなかった卒業論文も大切に保管していたと語っていたという。

記事後書き・・・『戦争、学生に伝えたい』
寄せ書きにある日の丸は、戦利品として「グットラック・フラッグ」として米国のオークションで取引されることもあると聞く。
ここに至るまで歯車の一つでもずれていれば、旗は戻ってこなかったかもしれない。
日米にまたがる熱意と、見えない運命の糸によって、一枚の旗が日本に帰ってくる。
立教大学では10月27日、キャンパス内のチャペルで特別礼拝を開き、カー牧師と旗を迎える予定だ。
米国と日本の青年が向かい合わざるを得なかった「あの日」。
一方は若くして将来の希望を絶たれ、一方は死ぬまで重荷を背負い続けた。
旗の帰還を通じて、戦争がもたらす深い傷を今の学生にも感じ取ってほしいと願っている。(立教学院理事長 糸魚川順)
追伸 戦中・戦後の様子は剣道部70周年記念誌に多くの資料が掲載されています。
また 1998年に発刊の『わが青春の立教』という冊子に学徒動員の当時の様子が雨宮先輩と上西先輩の記事を含めて掲載されています。